1971年公開/監督:スタンリー・キューブリック/原作:アンソニー・バージェス
※この記事は、映画『時計じかけのオレンジ』を鑑賞した私自身の考察・感想を中心にまとめたものです。作品には暴力、性的暴行、薬物などの刺激的な描写があります。また、この記事では作品のテーマについて踏み込んで考察していますが、できるだけ具体的な展開や結末には触れないようにしています。
映画には、何度観ても簡単には答えが出ない作品があります。
スタンリー・キューブリック監督の『時計じかけのオレンジ』は、まさにそんな映画です。
暴力、犯罪、性的暴行を繰り返す青年アレックス。
彼は明らかに「善人」ではありません。
むしろ、観客が嫌悪感を抱くように作られた人物です。
それなのに、この映画はアレックスを単純な「悪」として描いて終わりません。
もし、人間から「悪を選ぶ自由」まで奪ったら、その人間は本当に善人になったと言えるのでしょうか。
犯罪をしなくなった。
暴力を振るえなくなった。
それだけで、
「人間として善くなった」
と言えるのでしょうか。
この映画が恐ろしいのは、自由意志を守ることが正しいと簡単に結論づけさせてくれないところです。
なぜなら、自由意志を守ろうとしている相手が、あまりにも残虐な犯罪を行ってきたアレックスだからです。
安全な社会と、自由な社会。
犯罪を減らすために、国家は個人の心をどこまで管理してよいのか。
そして、
「善い人間」とは、善しか選べない人間なのか。
50年以上前に作られたこの映画は、今観ても、この問いを私たちの目の前に突きつけてきます。
※この記事は、映画『時計じかけのオレンジ』を鑑賞した私自身の考察・感想を中心にまとめたものです。作品には暴力、性的暴行、薬物などの刺激的な描写があります。また、この記事では作品のテーマについてかなり踏み込んで考察していますが、できるだけ具体的な展開や結末には触れないようにしています。
「選択なき善」は、本当に善なのか?
映画には、何度観ても答えが出ない作品があります。
『時計じかけのオレンジ』は、まさにそんな映画です。
暴力、犯罪、性的暴行を楽しむ少年アレックス。
彼は明らかに「善人」ではありません。
むしろ、観客が嫌悪感を抱くように作られた人物です。
ところが、この映画が恐ろしいのは、そんなアレックスを単純な「悪」として描いて終わらないところにあります。
もし、人間から「悪を選ぶ自由」まで奪ったら、その人間は本当に善人になったと言えるのでしょうか。
そして、
「犯罪をしなくなったのだから、それでいい」
と私たちは本当に言えるのでしょうか。
安全な社会のためなら、国家が個人の心を操作してもいいのか。
「悪の自由を許容する危険な社会」と、「安全だが心を管理される全体主義社会」。
あなたなら、どちらを選びますか?
スタンリー・キューブリックの『時計じかけのオレンジ』は、50年以上前の作品でありながら、今観ても恐ろしく現代的です。

『時計じかけのオレンジ』基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作品名 | 時計じかけのオレンジ |
| 原題 | A Clockwork Orange |
| 公開 | 1971年 |
| 監督 | スタンリー・キューブリック |
| 脚本 | スタンリー・キューブリック |
| 原作 | アンソニー・バージェス |
| 主演 | マルコム・マクダウェル |
| 主な出演者 | パトリック・マギー、マイケル・ベイツ、ウォーレン・クラーク、ジェームズ・マーカスほか |
| ジャンル | SF、犯罪、ディストピア、ブラックコメディなど |
| 上映時間 | 約137分 |
| 原作小説 | 1962年刊行 |
| 主なテーマ | 自由意志、暴力、国家権力、道徳、人間性、犯罪と更生 |
『時計じかけのオレンジ』は、イギリスの作家アンソニー・バージェスが1962年に発表した同名小説を、スタンリー・キューブリックが映画化した作品です。
ワーナー・ブラザース公式では、1971年製作、キューブリック監督、マルコム・マクダウェル主演、本編約137分とされています。
原作小説が扱う中心的な問題も、個人と国家、犯罪者への処罰、自由意志、道徳、人間の変化など非常に重いものです。
そしてキューブリックは、それを極端にスタイリッシュな映像とクラシック音楽によって映画化しました。
結果として生まれたのが、暴力的で不快なのに、なぜか美しく、そして観終わったあとまで頭から離れない作品です。

ネタバレなしのあらすじ
舞台は近未来のイギリス。
主人公の青年アレックスは、仲間たちと夜の街を徘徊し、暴力や犯罪を繰り返しています。
アレックスは非常に暴力的な人物ですが、一方でクラシック音楽を愛し、とりわけベートーヴェンを好むという一面を持っています。
ある事件をきっかけに、アレックスは刑務所に収監され、その後、政府が推進する特殊な矯正治療「ルドヴィコ療法」を受けることになります。
この治療によって、アレックスは暴力などに対して強い嫌悪反応を示すようになります。
しかし、ここから映画は単なる「悪人が更生する物語」ではなくなります。
犯罪を犯さなくなった。
暴力を振るえなくなった。
それだけなら、一見すると社会にとって良いことのように思えます。
しかし、その結果としてアレックスが自分自身の意思で善悪を選択することまでできなくなったとしたら。
果たして、それを「更生」と呼んでいいのでしょうか。
この問いこそが、『時計じかけのオレンジ』の核心です。
鮮烈すぎる映像美。「美しい」のに、なぜこんなに不気味なのか
この映画を語るうえで、まず外せないのが映像です。
とにかく美しい。
しかし、その美しさが恐ろしい。
白を基調とした人工的な空間。
奇妙なインテリア。
極端にデザインされた建築。
独特な衣装。
そして、そこに重ねられるクラシック音楽。
キューブリックは、暴力的で不快な出来事を、まるで芸術作品のような構図で見せます。
だからこそ観客は混乱します。
普通なら、
「これは恐ろしい場面だ」
と感じるところを、映像や音楽の美しさが包み込んでしまう。
その結果、
美しいものと醜いものの境界が崩れていく。
私は、この感覚こそ『時計じかけのオレンジ』の大きな魅力だと思います。
暴力を美化している、と単純に考えるよりも、
「人間は、美しいものと醜いものをそんなに簡単に切り離せない」
という不気味な事実を突きつけているように感じます。
マルコム・マクダウェルの圧倒的な存在感
そして、この映画を成立させている最大の要素のひとつが、マルコム・マクダウェル演じるアレックスです。
これはもう、圧倒的です。
初登場から異様な存在感があります。
あの目。
あの表情。
あの独特の笑い方。
そして、こちらを見透かすような視線。
映画冒頭から、アレックスには不気味なカリスマ性があります。
残忍なのに、どこかチャーミング。
恐ろしいのに、なぜか目を離せない。
マクダウェルは、アレックスに知性やユーモアだけでなく、どこか少年らしい無邪気さまで感じさせます。
だからこそ、余計に恐ろしい。
もしアレックスが単純な怪物だったなら、観客は安心して彼を「悪」と断罪できます。
しかし彼はそうではありません。
音楽を愛し、自分の言葉で世界を語る。
つまり、彼は間違いなく人間なのです。
そして、その「人間である」という事実こそが、この作品の地獄を作っています。
アレックスの母親の服装が異様に強烈な理由
私がこの映画で非常に気になったのが、アレックスの母親です。
なぜ、あんな服装なのか。
なぜ、あんなにも人工的なのか。
アレックスの母親は、派手で人工的な髪型や服装によって、息子とは別の意味で強烈な印象を残します。
衣装や美術は、この映画の社会や人物像を考えるうえで重要な要素です。実際、キューブリックによる映画化では衣装や美術が独特の社会感覚を作り出しており、研究でも階級社会や芸術、キッチュなどとの関連が論じられています。
ただし、母親の服装を「消費社会の象徴」と断定するのは少し違うと思います。
ここから先は、あくまで私自身の解釈です。
私は彼女の人工的な服装や振る舞いを見ていると、流行や世間の価値観に包まれながら、自分自身の判断よりも周囲の空気に流されている大人の姿にも見えてきます。
もちろん、母親がアレックスの暴力性を生み出した、という単純な話ではありません。
しかし、息子が何をしているのかを深く見ようとせず、問題から目を背けているように見える彼女の姿には、強烈な皮肉があります。
さらに興味深いのが、アレックスを取り巻く世間の評価が変化すると、母親の態度も変わって見えることです。
私はそこに、
「人間そのものを見るのではなく、世間からどう見られているかによって態度を変えてしまう人間」
という風刺を感じました。
これは作品そのものが明言している設定ではありません。
しかし、だからこそ私は、この母親の描写を単なる奇抜なファッションとしてではなく、キューブリックが作り上げた異様な社会空間の一部として考えてみたくなります。
この映画で最も恐ろしいのは「アレックス」ではない
『時計じかけのオレンジ』を観ていて、私が最も恐ろしく感じるのは、アレックス個人の異常性だけではありません。
もちろん、彼の暴力や残虐性は恐ろしい。
しかし、それ以上に恐ろしいのは、
「人間をどう管理するか」という発想そのものです。
犯罪が起きる。
治安が悪化する。
社会が不安になる。
そこで国家が、
「犯罪を減らすために、人間そのものを変えてしまえばいい」
と考えたらどうでしょう。
しかも、それを「治療」や「更生」という言葉で包めば、人々は受け入れてしまうかもしれない。
ここに、この映画の本当の恐ろしさがあります。
もちろん、これは私自身の作品解釈です。
映画は単純に「国家が悪い」とだけ描いているわけではありません。
むしろ、国家が犯罪を減らそうとすること自体は、社会にとって理解できる目的です。
だからこそ、
「正しい目的のためなら、人間の自由をどこまで奪っていいのか」
という問題が生まれます。
ルドヴィコ療法が突きつける究極の問題
アレックスが受けるルドヴィコ療法は、この映画の中心となる装置です。
映画では、アレックスに薬物を投与したうえで暴力的な映像などを見せ、暴力などに対して強い身体的嫌悪反応を起こすよう条件づけます。
ここで重要なのは、
「悪いことをしない人間」にするのではなく、「悪いことを選択できない人間」にしてしまう
という点です。
善を選んでいるわけではありません。
悪を選択する自由そのものを奪われている。
だからこそ、神父はこの治療に強く反対します。
作中の神父が問題にしているのは、アレックスが善人になったかどうかだけではありません。
本人の意思によって善を選んでいるのか。
それとも、悪を選べないようにされただけなのか。
この違いが、作品の倫理的な核心になります。
神父の主張は正しいのか?
頭では分かります。
自由意志は大切です。
人間から善悪を選択する能力まで奪ってはいけない。
しかし、感情的には簡単に納得できません。
なぜなら、アレックスは無実の少年ではないからです。
彼は自分自身の意思で残虐な犯罪を行ってきました。
だからこそ、
「こんな人間の自由意志まで守らなければならないのか?」
という、非常に居心地の悪い問いを突きつけられます。
もしアレックスが冤罪の被害者だったなら、私たちは比較的簡単に国家による強制的な矯正を批判できるでしょう。
しかし、実際に重大な犯罪を犯した人物だからこそ、観客の中にも、
「犯罪を止められるなら、それでいいのではないか」
という気持ちが生まれてしまう。
ここが、この作品の凄いところです。
観客に、
「悪人の自由意志も守るべきなのか?」
と考えさせる。
そしてさらに、
「安全のためなら、国家が人間の心を管理してもいいのか?」
と問い直す。
簡単な答えを用意しないからこそ、この映画は今も強烈なのだと思います。
「悪の自由」と「安全な全体主義」
結局、この映画が突きつけているのは、究極の二択なのだと思います。
悪を選ぶ自由を許容する社会。
そして、
安全だが、国家によって心を管理される社会。
どちらが正しいのでしょうか。
もちろん、現実社会ではこんな単純な二択ではありません。
しかし、映画はあえて極端な状況を作ることで、私たちの倫理観を揺さぶります。
「犯罪者を更生させる」
という、一見すると誰も反対しにくい目的。
そのために、
「本人の自由意志を奪う」
という手段が使われる。
目的が正しければ、手段も正当化されるのか。
この問題は、映画が作られた1971年だけの話ではありません。
むしろ、現代の私たちにこそ刺さるテーマではないでしょうか。
「時計じかけのオレンジ」というタイトルの意味
この奇妙なタイトルにも、『時計じかけのオレンジ』という作品の核心が隠されています。
アンソニー・バージェスは、このタイトルについて複数の説明を残しています。
バージェスによれば、「as queer as a clockwork orange」というロンドンの俗語表現を耳にしたことが、タイトルの一つの出発点でした。
一方で、バージェス自身は後年、この言葉に「有機的で生命に満ちたもの」と「機械的で冷たいもの」を組み合わせる意味を与えています。
国際アンソニー・バージェス財団も、バージェスが「オレンジ」を生命や有機的なもの、「時計じかけ」を機械的・規律的なものとして結びつけたと紹介しています。
さらに、バージェスはマレー語の orang(人、人間)との関連にも言及しています。
ただし、このタイトルの由来については、バージェス自身の説明にも揺れがあります。財団も、「as queer as a clockwork orange」という表現が実際に当時のロンドン俗語として存在したことには確証がなく、バージェス自身の説明に依存している部分があるとしています。
だからこそ私は、タイトルそのものを一つの「答え」としてではなく、この映画を考えるための象徴として捉えています。
生命を持った人間。
自由に考え、自由に選択する存在。
それが、外部から決められた反応しかできない存在へ変えられてしまう。
それはまるで、
「生きたオレンジを時計じかけにしてしまう」
ようなものではないでしょうか。
『時計じかけのオレンジ』というタイトルは、まさに「人間を機械化すること」の不気味さを表現しているように私は感じます。
ベートーヴェンとワイン。「芸術」と「道徳」は別物なのか
アレックスがベートーヴェンを愛していることも、非常に重要です。
ここには、
「芸術を理解できる人間=善人」ではない
という残酷な事実があります。
アレックスは美しい音楽を愛する。
しかし、それと道徳性はまったく別問題です。
もしアレックスが、何の感性も持たず、ただ暴力を振るうだけの人物だったなら、観客は彼を「単純な怪物」として処理できたかもしれません。
ところが彼はベートーヴェンを愛している。
音楽の美しさに強く反応する。
つまり、
美的感性と道徳性は、同じものではない。
ここが、この映画の面白いところです。
美しいものを愛する人間が、他者に対して残酷になれる。
芸術を理解することが、そのまま人間性の高さを意味するわけではない。
そして、ルドヴィコ療法によってアレックスのベートーヴェンへの愛まで苦痛と結びつけられてしまうことが、さらに恐ろしい。
国家は犯罪だけを抑えたのでしょうか。
それとも、
一人の人間が持っていた人格や感性まで傷つけてしまったのでしょうか。
私は、この点にもルドヴィコ療法の恐ろしさがあると思います。
国家にとって「アレックスの人間性」は最初からどうでもいい
この作品で私が強く嫌悪するのは、国家権力によって人間が「一人の人間」ではなく、政策の成果として扱われてしまうところです。
映画では、ルドヴィコ療法の成果を示すため、アレックスの状態が政治的な意味を持つものとして利用されます。
作中の内務大臣にとって重要なのは、アレックスが人間としてどのように生きるのかという問題だけではありません。
犯罪を減らすこと。
刑務所の過密を解消すること。
そして、政府の政策が成功したことを示すこと。
そうした政治的な目的が前面に出てきます。
だから私は、アレックスが「一人の人間」ではなく、
政治によって利用できる存在
として扱われているように感じます。
必要なときには「更生の成功例」。
都合が悪くなれば、別の政治的な問題の材料。
もちろん、これは私自身の作品解釈です。
しかし、このように考えると、ルドヴィコ療法の恐ろしさは単なる治療技術の問題ではなくなります。
人間を、政策の結果として管理する。
そこに、この映画が描く国家権力の冷たさがあるのだと思います。
かつての仲間が警官になった意味
もうひとつ非常に皮肉なのが、アレックスのかつての仲間たちです。
映画では、かつてアレックスと行動をともにしていたディムとジョージーが、後に警察官になっています。映画の脚本でも、二人が「the police」としてアレックスの前に現れることが確認できます。
ここには、
「暴力そのものが消えたのではなく、誰の側で、誰の命令によって行われるかが変わっただけなのではないか」
という皮肉を感じます。
もちろん、警察官になったからといって、彼らの暴力性と警察組織そのものを単純に同一視することはできません。
しかし映画では、かつての暴力的な若者が国家側の制服を着て、今度は公的な権力を持つ側に回っています。
しかも、アレックスに対して行う暴力は、単なる職務執行では終わりません。
そこには、過去の仲間同士の関係や私怨まで入り込んでいるように見えます。
だから私はこの場面を、
「人間が変わったのではなく、暴力を振るう立場が変わっただけなのではないか」
という強烈な皮肉として観ました。
この反転は、この映画の中でも特に印象に残る部分です。
パトリック・マギーの演技が凄すぎる
アレックスばかりに目が行きますが、パトリック・マギーの演技も素晴らしいです。
彼が演じるフランク・アレクサンダーは、アレックスとはまったく違う意味で強烈な人物です。
特に印象的なのが、アレックスと再び対峙したときの表情。
怒り。
恐怖。
憎しみ。
そして、そこに混ざる異様な執念。
マギーは、表情や声の張り方だけで、単純な「被害者」では終わらない人物を作り上げています。
彼はアレックスの暴力によって深く傷つけられた人間です。
だからこそ、アレックスを憎むことには当然の理由があります。
しかし、映画は彼を完全な聖人として描いているわけでもありません。
被害者であっても、完全に純粋な存在ではない。
ここでもキューブリックは、
「善人と悪人」という単純な二分法
を崩していきます。
ちなみにフランク・アレクサンダーは、ルドヴィコ療法を受けた人物ではありません。
彼はアレックスの過去の被害者であり、後にアレックスと再び関わることになる作家です。パトリック・マギーがフランク・アレクサンダーを演じたこともキャスト資料で確認できます。
この点は、アレックスと国家の関係だけではなく、「被害者と加害者」「復讐と正義」という別の問題を考えるうえでも重要だと思います。
映画と原作小説では、結末に重要な違いがある
ここは『時計じかけのオレンジ』を語るうえで外せません。
映画と原作小説では、結末の意味が大きく異なります。
アンソニー・バージェスの原作は、もともと21章構成でした。
しかし、アメリカ版では第21章が削除され、20章で終わる形になりました。
そしてキューブリックの映画は、この20章までの結末を採用しています。バージェス自身も後年、この違いについて詳しく説明しています。
第20章までのアレックスは、ルドヴィコ療法の影響から解放されると、再び暴力的な人生へ戻っていく方向性が示されます。
一方、原作の第21章では、アレックスが成長し、やがて自分自身の意思で暴力的な生き方から離れていこうとする姿が描かれます。
ここには非常に大きな違いがあります。
映画では、
「自由意志を取り戻したら、アレックスは再び暴力的な人間に戻る」
という皮肉が残ります。
しかし原作の第21章まで読むと、
「自由意志を持った人間は、自分自身の意思で善を選ぶこともできる」
という別の可能性が見えてきます。
なお、「キューブリックが原作の結末を勝手に削った」と単純に説明するのは正確ではありません。
バージェス自身、当初から第21章を「optional epilogue」として扱っており、アメリカ版の20章で終わる形についても一時は受け入れていました。後年になると、バージェスは第21章を含む結末をより支持するようになります。
この違いを知ると、映画と原作では「自由意志」というテーマの見え方そのものが変わってきます。
映画はより暗く、皮肉な問いを残す。
原作の完全版は、自由意志による道徳的な成長の可能性まで描く。
私は、この違いも『時計じかけのオレンジ』を考えるうえで非常に興味深いところだと思います。
だから、この映画は「暴力映画」では終わらない
『時計じかけのオレンジ』は、暴力描写だけを見ると非常に過激です。
しかし、暴力だけを目的にした映画ではありません。
むしろ、
「人間とは何なのか」
を描いた映画だと思います。
善人とは何なのか。
悪人とは何なのか。
自由とは何なのか。
国家にはどこまで個人を管理する権利があるのか。
犯罪者にも自由意志は必要なのか。
そして、
自分が安全に暮らせるなら、他人の自由が奪われても構わないと思ってしまわないか。
こうして考えていくと、単なる「昔の問題作」ではなくなります。
国際アンソニー・バージェス財団も、この作品が個人と国家、犯罪者への処罰、救済の可能性を扱っており、その道徳的な問いが現在にも通じるとしています。
だからこそ私は、この映画を単なる「暴力的な映画」として片づけたくありません。
暴力を見せながら、その先にある「人間を人間たらしめるもの」を問い続ける映画なのだと思います。
『時計じかけのオレンジ』がおすすめな人
おすすめな人
- スタンリー・キューブリックの映画が好きな人
- 『2001年宇宙の旅』や『フルメタル・ジャケット』など、考えさせられる映画が好きな人
- 美術・映像・インテリア・デザインに興味がある人
- クラシック音楽が好きな人
- ディストピア作品が好きな人
- 自由意志や倫理について考えるのが好きな人
- 「善とは何か」というテーマに興味がある人
- 一度観ただけでは答えが出ない映画が好きな人
- 後味の悪い問題作をあえて観たい人
特に、
「観終わったあとに誰かと議論したくなる映画」
が好きな人には、かなりおすすめです。
ただし、暴力や性的暴行を扱う作品なので、誰にでも気軽におすすめできる映画ではありません。
そこだけは覚悟して観たほうがいいと思います。
『時計じかけのオレンジ』をおすすめしない人
- 暴力的な描写が苦手な人
- 性的暴行を扱う作品を観たくない人
- 不快感の強い映画が苦手な人
- 明確な善悪が描かれる作品が好きな人
- 最後にスッキリする映画を観たい人
- 「悪い人が反省して、めでたしめでたし」という物語を期待する人
特に、暴力や性的暴行を扱った描写があるため、誰にでも気軽におすすめできる作品ではありません。
ただし、そうした刺激性だけを目的に観ると、この映画の本当の面白さを見落としてしまうと思います。
この映画の本当の怖さは、暴力そのものだけではありません。
「人間を善くする」という目的のために、人間の自由まで奪っていいのか。
そこまで考えさせられる作品だからこそ、私は今でも強く印象に残っています。
『時計じかけのオレンジ』FAQ
Q. 『時計じかけのオレンジ』は怖い映画ですか?
ホラー映画ではありませんが、非常に不気味で精神的な恐怖を感じる作品です。
特に怖いのは、幽霊や怪物ではありません。
人間の自由意志を、国家や制度によって操作できるという発想そのものです。
Q. 暴力描写はかなり激しいですか?
かなり激しいです。
暴力だけでなく性的暴行を扱う場面もあるため、苦手な方は注意が必要です。
Q. アレックスは悪人ですか?
重大な犯罪を行う人物なので、彼の行為を正当化することはできません。
ただし、この作品の面白さは、
「悪人だからといって、その人間から自由意志まで奪っていいのか?」
という問いにあります。
アレックスの犯罪を肯定する映画ではありません。
むしろ、
「犯罪者から人間としての選択能力まで奪うことは許されるのか」
と問いかける映画だと思います。
Q. 神父の主張は正しいのでしょうか?
私は、倫理的には非常に重要な指摘だと思います。
ただし、感情的には簡単に納得できません。
それほどアレックスの犯罪が残虐だからです。
だからこそ、この映画は観客自身を葛藤させます。
Q. 「時計じかけのオレンジ」とはどういう意味ですか?
アンソニー・バージェスは、このタイトルについて複数の説明をしています。
「as queer as a clockwork orange」という表現との関係や、「生命・有機的なもの」と「機械的・冷たいもの」を組み合わせる意味などが語られています。
そのため、作品そのものを考えるうえでは、
「生きた人間が、機械のように制御される」
というイメージで捉えると分かりやすいと思います。
Q. 原作小説と映画は同じですか?
大筋は同じですが、結末には重要な違いがあります。
原作の完全版には第21章があり、そこでアレックスの成長と、暴力から自ら離れていこうとする姿が描かれます。
一方、キューブリックの映画は第21章を採用していません。
この違いによって、映画は原作の完全版よりも暗く、皮肉な印象を残します。
Q. ベートーヴェンが重要なのはなぜですか?
アレックスが芸術を理解し、クラシック音楽を愛する人物だからです。
これによって、
「芸術を愛する人間=善人」
という単純な図式が崩されます。
美的感性と道徳性は、必ずしも同じではありません。
さらに、ルドヴィコ療法によってアレックスのベートーヴェンへの愛まで苦痛と結びついてしまうことで、「人間性とは何なのか」という問いがさらに深くなります。
まとめ|「善い人間」とは、善しか選べない人間なのか
『時計じかけのオレンジ』を観終わったあと、私の中に残ったのは、
「選択なき善は、本当に善なのか?」
という問いでした。
アレックスは間違いなく恐ろしい人物です。
彼の暴力や残虐行為を擁護することはできません。
それでも、人間から自由意志を奪ってしまえば、その人間は本当に「善人」になったのでしょうか。
私は、この映画の恐怖はアレックスそのものだけではないと思っています。
本当に恐ろしいのは、
「犯罪がなくなるなら、それでいい」
「治安が良くなるなら、それでいい」
「自分たちに被害がないなら、それでいい」
と、考えることをやめてしまうことです。
もちろん、これは私自身の作品の読み方です。
映画が「国家だけが悪い」と単純に描いているわけではありません。
むしろ、アレックスのような人物によって被害を受ける側の苦しみも、私たちは無視できません。
だからこそ難しい。
犯罪を防ぎたい。
被害者を守りたい。
社会を安全にしたい。
それでも、人間から自由に選択する能力まで奪っていいのか。
この問いには、簡単な答えがありません。
そして私は、それこそが『時計じかけのオレンジ』の凄さだと思っています。
観客に、
「国家が悪い」
と安心して言わせてくれない。
自由意志を守るべきだと理解していても、
「でも、アレックスのような人間の自由意志まで守る必要があるのか?」
という疑問が残ってしまう。
その居心地の悪さから逃げられない。
だから、この映画は半世紀以上経った今でも古びないのだと思います。
そして、原作の第21章まで読むと、さらに興味深い問いが生まれます。
人間は、外から善を強制されなくても、自分自身の意思で善を選ぶことができるのか。
もしそれが可能なら、
「本当の更生」とは、悪を選べなくすることではなく、悪を選ぶこともできる人間が、自分自身の意思で別の道を選ぶことなのではないか。
私はそんなふうにも考えました。
美しい。
不気味。
残酷。
そして、恐ろしく知的。
『時計じかけのオレンジ』は、ただの問題作ではありません。
「人間とは何か」を観客自身に考えさせる、映画史に残る傑作です。
ただし、一度観て終わる映画ではありません。
観終わったあとに、
「自分ならどうする?」
と考えてしまう。
そして、その答えが簡単には出てこない。
だからこそ、私はこの映画を何度でも観たくなります。